みのりの眼

投稿者名:ピクセリウム株式会社

倉田莉奈 コンセプチュアル・リサイタル vol.4 レポート

人にはその人が存在するだけで発生してる、何か渦のようなものがあり、それが大きくて強いと、他者をも巻き込む影響があるのではないかと思う。
その渦が持つ質と力はまた別物で、どんなに良質でも訴求力の弱いもの、強力でもなんだか下品で俗っぽいとか、そんな感じで。

倉田さんの演奏会は回を重ねる毎に、どんどんとその渦の強さが増している。
彼女の持つセンスの良さ、ハウブロウな趣味と繊細さ。
むしろそれが仇となって、聴く人を選び、多くの人にはその良さが伝わりにくいのではないかという危惧は杞憂だった。

クープランもバッハもそんな力強さを持って始まる。
グラナドスの『アンダルーサ』は個人的に子供の頃から大好きな曲。
激情のまま突っ走る主題にくらべて、優しく甘い中間部を退屈に感じることも多い曲だけれども、彼女の演奏だとここが一番輝く。
なんと優しく繊細な。

そこで潮目が変わり、おそらく彼女の持つ良い資質が最も発揮される繊細でアンニュイな曲が続く。
ドラージュの『夏』にはフランス語の歌も入るのだけれど、力みなく自然で、私にはブリジット・フォンテーヌの『ラジオのように』を思い起こさせた。
自然の風や細波のように、あるべくして生まれて、そして流れて消えてゆく。

この日の2度目の潮目の変化はブラームスだろう。
流暢にフランス語を話す人のドイツ語。
違う言語を話すことを意識するのと同じで、ピアノの音も表現もはっきりと変化する。
そしてこの日の山のシューベルトのソナタ。

アンコールの坂本龍一では再び歌が。
ジブリ映画で宮崎駿は、専業声優の媚びた感じを嫌い、俳優を声優として採用するという話を思い出した。
倉田さんの歌には専業歌手が持つ力みがなくて、自然で美しい。
そんな魅力がある。

いつもながら選曲と曲順が一つの優れたアートになっている。
どんな曲であろうとも、たった一音が鳴っただけで聴く人を魅了し、その一瞬から惹きつけて止まない演奏家も、過去や未来、世界のどこかにはいるだろう。
だけれども、コンサート全体のコンセプトや構成、その流れと演出、演奏者の持つ資質をフルに活かす表現芸術であること。
それをここまでの完成度でプロデュース出来る演奏家は、そうはいないのではないかと思っている。

文責:前原麗子

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トマシュ・リッテル ピアノ・リサイタル

トマシュ・リッテルという名前よりも、きっと「川口成彦が2位だったショパンコンクールで1位をとったピアニスト」という方が通りが良いでしょう。
現に私もそうでした。
アー写ではいかにも今風の「成功した」美男美女風に撮られてしまっているけれど、実際にステージに現れた彼は違う。
「やあやあ、みなさん、本日のスターが登場しましたよ!」とばかりに拍手クレクレと登場する芸人や芸能人のような奏者も多い中で、彼は完全にオーラを消して現れ、まるで機械の修理に来たエンジニアのような雰囲気で、客など存在しないかのように気負いなく自然に弾き始める。
リッテルの師でもあるリュビモフの、クルクルと動き回りパタリと眠る多動の子供のようなモーツァルトを知っていると、少し動きが緩慢で重い気もしてしまうけれど、それは解釈や技術の問題ではなく、奏者と作曲家の気質の違いのように思う。
リュビモフの資質がモーツァルトに合致しすぎていたからかとも。
ベートーヴェンもショパンも素晴らしい。
これは個人的な受け取り方に過ぎないけれども、ショパンをただ感傷的に甘ったるく甘美にだけ弾かれることも多い中、私にはショパンの曲とは、この世に閉じ込められて出られない絶望と諦観の音楽のように感じられていました。
この世はろくでもない牢獄でもあるけれど、だからこそ、諦めて美しい良い面に目を向けて前向きに強く生きなくては!という気にさせる奏者も稀にはいます。
でもリッテルの『24の前奏曲』はそれ以上でした。
突然ですが『トゥルーマン・ショー』という映画をご存知でしょうか。
主人公が虚構の世界に気付き、全力でそこからの脱出を試みるという物語。
リッテルの『24の前奏曲』からは、そんな気概が感じられて、おそらくショパン自身が初期設定した世界観からも先に進めてしまっているのではないかと。
諦めて安住するのではなく、立ち向かう音楽に、思わず落涙。
「私の解釈」「私の音楽」それを認められたいがために必死で努力し、そうなった暁が夢であり成功であるという人も多いでしょう。
個人が社会的な地位を得るための手段としての音楽、それはエゴの音楽でもあり、小さな小さなごく個人的な音楽です。
そういうものを聴いていると、逆に何かを奪われるようだといつも思います。
「私が輝きたい」「私がスポットライトを浴びたい」、そのための外部装置にさせられてしまうんです。
リッテルはまずは作曲家に、次に音楽に、そして音楽の背後にある大いなるものに。
それらのために全力を尽くした後に全てを明け渡し、良き霊感を待つ音楽でした。
持ち上げられたスターと、その持ち上げ要員としての観客、という役割を強要されていると感じることがままあります。
教祖がいて信者がいて、その依存関係のためにお金を介す宗教団体化してしまう。
でもこんな音楽の前では、そのようなくだらない既存の枠組みが崩壊してしまう。
個人崇拝ではなく、一人一人が自らの足で立ち、大いなるものに個人でつながることが可能になってしまうから。
そんな解放の音楽でした。
素晴らしい。

文責:前原麗子

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倉田莉奈 コンセプチュアル・リサイタル vol.4「旅路」(2023.6.14)

毎回定めるテーマに従ったメインの作品、そしてそこへと至る前奏曲のように並べられた小品たち。それらを連続してピアニスト倉田莉奈が一気に演奏する、他にはないリサイタルシリーズ。

その4回目となる今回のテーマは「旅路」、メイン曲はシューベルトの残した最後のソナタ、その他クープラン、グラナドス、ドラージュ、ベリオ、ブラームスなどの小品で構成されたプログラムです。

70分間聴き続けたときにあなたの心に湧き上がるものは一体?ぜひ体験しにいらしてください!

【プログラム】
・クープラン : クラヴサン曲集より「シテール島の鐘」
・バッハ:フランス組曲第6番より「クーラント」
・グラナドス : スペイン舞曲集より「アンダルーサ(祈り)」
・ドビュッシー : 前奏曲集より「アナカプリの丘」
・ドラージュ : 7つの俳諧より第7番「夏」
・木下牧子 : 9つのプレリュードより第2番
・ベリオ : 6つのアンコールより第3番「水のピアノ」
・ブラームス : 間奏曲作品117-2
・シューベルト : ピアノソナタ第21番 D.960

全席自由 一般4,000円/ 学生2,000円/ リピとも割

日程:2023.6.14(水) 19:00開演(18:30開場)

場所:鶴見サルビアホール音楽ホール

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加藤訓子 ソロリサイタルシリーズ vol.1(2023.3.17)

<プログラム>
1 バッハ  平均律クラヴィーア組曲 第1番 前奏曲
2 ライヒ  ニューヨーク・カウンターポイント
3 ライヒ  シックス・マリンバ・カウンターポイント
4 ライヒ  ナゴヤ・マリンバ

5 バッハ  リュート組曲
6 ペルト  カントゥス ~ ベンジャミン・ブリテンへの追悼歌
7 バッハ  無伴奏チェロ組曲 第5番 前奏曲
8 ペルト  フラトレス
9 ディヴィス  パール・グラウンド
10 ペルト  鏡の中の鏡

<演奏者>
加藤訓子

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吉本梨乃 室内楽の夕べ&サロンコンサート(2023.3.10 & 12)

室内楽の夕べ(3/10)

<プログラム>
1 ハイドン ピアノ三重奏曲 第39番 ト長調「ジプシー風」
2 シューベルト ヴァイオリン・ソナタ イ長調「Grand Duo」
3 パガニーニ 「虚ろな心(ネルコルピウノンミセント)」による序奏と変奏曲
4 ブラームス ピアノ三重奏曲 第1番

<演奏者>
吉本梨乃(vn)
富岡廉太郎(vc)
松岡美絵(pf)

サロン・コンサート(3/12)

昼の部:オール無伴奏プログラム

<プログラム>
1 J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番
2 パガニーニ 『24のカプリース』より第24番、第17番
3 J.S.バッハ 『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番』より「シャコンヌ」
4 パガニーニ 「虚ろな心(ネルコルピウノンミセント)」による序奏と変奏曲
5 クライスラー レチタティーヴォとスケルツォ
6 イザイ 無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番「バラード」

夜の部:フリッツ・クライスラー・プログラム

<プログラム>
1 ウィーン奇想曲
2 レチタティーヴォとスケルツォ
3 中国の太鼓
4 プニャーニ様式による前奏曲とアレグロ
5 ラ・カンパネラ(パガニーニ作曲、クライスラー編曲)
6 オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』より「メロディ」(グルック作曲、クライスラー編曲)
7 ヴァイオリンソナタ「悪魔のトリル」(タルティーニ作曲、クライスラー編曲)

<出演者>
吉本梨乃(vn)
松岡美絵(pf)

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ルネ・ド・カステラについて(2)

凱旋門の近く、シャンゼリゼ大通りから一本裏にあるシャンゼリゼ劇場、その内部装飾を任されたひとりにモーリス・ドニがいました。そして彼は天井画を描いたのですが、そこにはなんとピアノを弾くブランシュ・セルヴァと譜めくりをするルネ・ド・カステラが登場しています。

私は今回カステラの生誕150年にちなんだコンサートをするにあたって、いろいろ調べているうちにこのことを知ったのですが、いざこの絵を見た時に「おや?この絵には見覚えがある…」と感じました。なんてことはない、カステラの孫たちが書いたカステラの評伝の表紙にこの絵は使われていたのです。ちゃんと表紙裏のキャプションを見ていればそのこともとっくに知っていたのでしょうが。

まぁそれはともかく、モーリス・ドニとスコラ・カントルムの音楽家たちの交友についてはよく知られていますが、そうでなくともセルヴァとカステラがパリ中心の劇場の天井に描かれているというのは、当時の存在の大きさを示していると感じざるを得ません。

セルヴァはリカルド・ヴィエニスと並んで当時の重要な二大ピアニストのうちのひとりだから何をか言わんやですが、カステラも実は当時のパリの音楽家たちの中心にいたと言っても過言ではありません。というのも、前にも書いた通り、彼はさまざまなサロンやコンサートといった集まりに足繁く通ったり、スコラ・カントルムで卒業後もその秘書として働いたりすることで、当時パリにいたほとんど全ての音楽家と繋がりを持っていましたし、楽譜出版社を設立し、音楽家たちが自らの譜面を出版しやすい状況を作ったからです。

つまりカステラもまたこのシャンゼリゼ劇場の天井に描かれるに相応しい、フランス音楽への大きな貢献を果たしたのです。だからこそ、その美しく優雅な作品とともに今再び評価すべき人だと僕は確信しています。

さてひとつ謎が残っていて、それはこのヴァイオリンを弾いている女性は誰かということです。これは明らかにされていないので推測するしかないのですが、ノエラ・クジンではないかと言われています。

ノエラ・クーザン。同い年のガストン・プーレ宛に、ピアノとヴァイオリンのためのソナタを書き捧げた年にドビュッシーが書き送った手紙にも言及されてるそうです。彼はベレー帽かぶって妙に元気な彼女をみて音楽がわかるのか訝しがったそうですが、翌年彼女はバイヨンヌやポーでドビュッシーの当該ソナタを弾いたそう。またクライスラーによる擬古作風のバロック作品も鮮やかに弾いたそうです。

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ルネ・ド・カステラについて(1)

今年2023年に生誕150年を迎えたフランスの作曲家ルネ・ド・カステラ。それにちなんだ2回のコンサートを企画したわけですが、そもそもカステラって誰よ?という方がほとんどだと思うので、彼についてざっと説明します。

フランス音楽の中心的存在であるバスク・ランド地方の作曲家ルネ・ダヴザック・ド・カステラは、1873 年 4 月 3 日、フランス南西部ランド地方のダクスという町に生まれました。

ダクスで名ピアニスト、フランシス・プランテに注目された彼は、1891 年に 18 歳でパリ音楽院に進学しました。その後 1896 年に開校した音楽学校スコラ・カントルムの最初のクラスに入学しますが、その中には同じフランス南西部出身の作曲家セヴラックも含まれていて、彼とはすぐに深い友情が築かれました。

1898 年末、カタルーニャの有名なピアニストで作曲家のアルベニスがスコラ・カントルムのピアノコースの教授となりますが、そこでの最高の弟子はセヴラックとカステラでした。その後この 3 人は親友となります。

また 1899 年には、当時 15 歳の天才ピアニスト、ブランシュ・セルヴァがスコラ・カントルムに入学し、3 年後にはピアノコースの教授となります。カステラとセヴラックはアルベニスと同様に彼女とも親しい間柄となりました。またセルヴァが開いた音楽サロンにはカステラやセヴラックのほか、ダンディ、アルベニス、ルーセル、カントルーブなどが集まり、親密な時間を過ごしました。

カステラはコンサートホールや音楽サロンにも頻繁に訪れ、当時のほとんどの音楽家と出会い、頻繁に交流しました。すでに述べた音楽家以外にも、フォーレ、ラヴェル、ドビュッシー、ショーソン、デュカスなど多数に渡ります。さらにその後スコラ・カントルムの秘書となったときにはフランスのほか、ベルギー(イザイなど)、スペイン(グラナドスなど)の音楽家のほとんどと交流する機会を得ました。

1902 年、カステラは、多くの作曲家がより容易に作品を出版できるよう、「エディション・ミュチュエル」という出版社を設立しました。その結果彼と繋がりのある多くの作曲家が自らの作品をこの出版社から世に出すことができました。その中にはアルベニスの傑作『イベリア』もあります。

このようにカステラは当時のフランス音楽界を語る上で、欠くことのできない重要な人物です。

そんなカステラの作品の多くは、ランド県の実家で過ごした休暇中に作曲されました。今回演奏する作品もみなそうで、ランド地方とバスク地方の雰囲気を背景とした優雅なものばかりです。それらは彼がつきあった本当にたくさんの作曲家の作品とくらべても遜色はありません。

ぜひこの機会にお聞きいただきたいと思います。

*この内容はカステラの孫のアンヌさんによるバイオグラフィーをもとにまとめました。

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加藤訓子コンサートレポート 2

加藤さんの演奏を聴くのは、お恥ずかしながら初めて。
80分休憩なし、こんなに長い時間マリンバのソロだけを聴いたのも初めて。
厳かなバッハから始まり、現代の都会の街の雑踏の中にいるようなライヒ、そして打ち込みのようなリズムの現代曲が続く。
CDで音だけを聴いていたら、おそらくデジタルの打ち込みの音楽だと思ってしまうかもしれない。
それを眼の前で、アスリートように筋肉の引き締まった奏者が、人の手によって生の音を奏でるのだから、目と耳と頭が若干混乱してくる。
だが、だんだんと引き込まれて夢中になる。
連続した音の永続性の中で徐々に意識が朦朧とし、こちらはすっかり身体の存在を忘れて、うっかりトランス状態に入りかけて自己喪失しかけてしまっているというのに、演奏は録音と合わせてピッタリと終わる。
一流の奏者には当たり前かもしれないけれど、その凄さに驚く。
そして聴き慣れた人にはこちらも当たり前のことだろうけれども、曲間や曲の途中にマレットを持ち替えると、その色や大きさにより、音色が異なることが初心者には面白く、子供心がワクワクしてしまう。
超低音のバッハなど、選曲も演奏も随分とビターで甘ったるいところが一切なく、嘘のない現実を突きつけられる厳しさと共に、何故だかそこに深く安堵する。
そして後半はホッと息をつける救いのある曲が並ぶ。
本当になんとよく練られ、考え抜かれたプログラムだろう。
それでもやはりそこにも嘘くささや甘ったるさは皆無。
演奏を聴きながら、加藤さんはご自分の音楽ににごく個人的な日常体験や感情を持ち込まない演奏家なのではないかと感じます。
だから卑小な「我」の音楽ではない、もっと大きく超越的な世界があり、そこに普遍性と説得力がある。
言葉や文化が違う相手にも伝わる、真実の音楽。
全ての演奏が終わり、素のお姿でご挨拶されると、演奏とはまた違う、明るく元気な、現代に生きる血の通った1人の人間の一面も垣間見え、そのギャップにちょっと驚いてしまう。
全曲通して、どこかグレゴリオ聖歌の響きの中にいるような、世俗的ではない心地の良さがあり、エストニアの教会での演奏を思い出されていたとのお話でした。
ご本人も仰っていましたが、80分があっという間に過ぎ去ってしまい、奏者も観客も、どこか別の場所に連れて行かれ、そこで精神を洗われて戻されるような、終わってしまうのは惜しいけれども、心も身体も晴れやかでさっぱり。
そんな80分でした。
嘘や誤魔化しのない容赦のない世界。
それは現実や日常から乖離したものであるからこそ、あるべき理想であり、誰もが目を背ける真実でもあります。
それを音楽で具現化したものを体験したと思います。
これもまた現代の祈りの音楽の一つなのかもしれません。
またぜひ第二弾もあることを!
文責:前原麗子(みのりの眼スタッフ)

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加藤訓子コンサートレポート

加藤さんの演奏を聴くのは、お恥ずかしながら初めて。
80分休憩なし、こんなに長い時間マリンバのソロだけを聴いたのも初めて。
厳かなバッハから始まり、現代の都会の街の雑踏の中にいるようなライヒ、そして打ち込みのようなリズムの現代曲が続く。
CDで音だけを聴いていたら、おそらくデジタルの打ち込みの音楽だと思ってしまうかもしれない。
それを眼の前で、アスリートように筋肉の引き締まった奏者が、人の手によって生の音を奏でるのだから、目と耳と頭が若干混乱してくる。
だが、だんだんと引き込まれて夢中になる。
連続した音の永続性の中で徐々に意識が朦朧とし、こちらはすっかり身体の存在を忘れて、うっかりトランス状態に入りかけて自己喪失しかけてしまっているというのに、演奏は録音と合わせてピッタリと終わる。
一流の奏者には当たり前かもしれないけれど、その凄さに驚く。
そして聴き慣れた人にはこちらも当たり前のことだろうけれども、曲間や曲の途中にマレットを持ち替えると、その色や大きさにより、音色が異なることが初心者には面白く、子供心がワクワクしてしまう。
超低音のバッハなど、選曲も演奏も随分とビターで甘ったるいところが一切なく、嘘のない現実を突きつけられる厳しさと共に、何故だかそこに深く安堵する。
そして後半はホッと息をつける救いのある曲が並ぶ。
本当になんとよく練られ、考え抜かれたプログラムだろう。
それでもやはりそこにも嘘くささや甘ったるさは皆無。
演奏を聴きながら、加藤さんはご自分の音楽ににごく個人的な日常体験や感情を持ち込まない演奏家なのではないかと感じます。
だから卑小な「我」の音楽ではない、もっと大きく超越的な世界があり、そこに普遍性と説得力がある。
言葉や文化が違う相手にも伝わる、真実の音楽。
全ての演奏が終わり、素のお姿でご挨拶されると、演奏とはまた違う、明るく元気な、現代に生きる血の通った1人の人間の一面も垣間見え、そのギャップにちょっと驚いてしまう。
全曲通して、どこかグレゴリオ聖歌の響きの中にいるような、世俗的ではない心地の良さがあり、エストニアの教会での演奏を思い出されていたとのお話でした。
ご本人も仰っていましたが、80分があっという間に過ぎ去ってしまい、奏者も観客も、どこか別の場所に連れて行かれ、そこで精神を洗われて戻されるような、終わってしまうのは惜しいけれども、心も身体も晴れやかでさっぱり。
そんな80分でした。
嘘や誤魔化しのない容赦のない世界。
それは現実や日常から乖離したものであるからこそ、あるべき理想であり、誰もが目を背ける真実でもあります。
それを音楽で具現化したものを体験したと思います。
これもまた現代の祈りの音楽の一つなのかもしれません。
またぜひ第二弾もあることを!
文責:前原麗子(みのりの眼スタッフ)

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倉田莉奈 コンセプチュアルリサイタルシリーズ vol.3「こわれる」(2023.2.4)

<プログラム>
1 モーツァルト  小さなジーグ
2 リゲティ  練習曲 第1巻 第2番「開放弦」
3 ラヴェル  グロテスクなセレナーデ
4 ケージ  トイピアノのための組曲 より 第5番
5 一柳慧  雲の表情 Ⅰ
6 サンカン  フルートとピアノのためのソナチネ
7 スコット  蓮の国
8 ヒンデミット  音の遊び  19.田園曲
9 スクリャービン  2つの詩曲 第1曲
10 シューマン  クライスレリアーナ

<演奏者>
倉田莉奈(pf)
今井貴子(fl)

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